中村紘子 50年のあゆみ

~1969 1970~1979 1980~1989 1990~1999 2000~2009
1990年
4~11月にかけて、札幌、広島、大阪、東京、福岡、長野、名古屋で「ポーランド支援コンサート」を開催。演奏会の収益ならびに寄付により、基金が1億円に達した
5~6月、スヴェトラーノフ指揮ソビエト国立交響楽団日本公演のソリストとして全国各地で共演、また、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番のレコーディングを行う
6~7月、モスクワ。「チャイコフスキー国際コンクール」ピアノ部門の3度目の審査員を務める
8月、イタリアの「ブゾーニ国際ピアノコンクール」審査員
9月、英国「リーズ国際ピアノコンクール」審査員
11月、ワルシャワ。「ショパン国際ピアノコンクール」の審査員を務める
1991年
6月、米国の「ジーナ・バックアワーコンクール」の審査員を務める
11月、「台湾ショパンコンクール」の審査員を務める
モスクワ国立交響楽団(パーヴェル・コーガン指揮)、ウィーン交響楽団(ヴォルフガング・サヴァリッシュ指揮)の日本ツアーのソリストを務める
N響、都響、東京フィル、日本フィル、東京交響楽団、名古屋フィル、大阪フィル、札幌交響楽団、アンサンブル金沢といった日本のオーケストラとの共演だけで23公演という精力的な活動を展開する
1992年
1月、著作第2作『ピアニストという蛮族がいる』(文藝春秋刊)が文藝春秋読者賞を受賞
3月、「ルービンシュタイン国際ピアノコンクール」の審査員
9月、タイ、マレーシアへ初の演奏旅行
名古屋テレビ30周年記念事業として、「中村紘子インヴィテーショナルコンサート」を東京、名古屋、大阪で開催。アジアの若手ピアニストの世界的な活躍をアピールし、発表の場とした
5月、12月とソプラノの松本美和子とのデュオ・コンサートを開催、絶賛を受ける。併せてCDのレコーディングも行う
6月、「シドニー国際ピアノコンクール」審査員
10月、スヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団日本公演のソリストとして全国各地で演奏
11月、「東京国際コンクール」の審査員を務める
1993年
ルービンシュタイン国際音楽協会より、東洋人として初の「ルービンシュタイン・ゴールドメダル」を受ける。この受賞を記念して、6月にサントリーホールで記念演奏会「ルービンシュタインに捧ぐ」を開催。ルービンシュタインが最後に行ったリサイタルとほぼ同一のプログラムによる演奏会は高い評価を受け、NHKによる全国中継およびライブ・アルバムも発売された
2~3月、米国「ヴァン・クライヴァーン・コンクール」審査員を務めた後、ワシントン、ロサンゼルス、コヴィントン、トロントでのアメリカ公演を行い、大成功を収める
6月、日本人の芸術家として初の「ポーランド共和国コマンダリー勲章」を受ける。日本でショパンの作品を広めたことはもちろんのこと、ショパンコンクールの審査員やポーランド支援コンサートという、長年にわたる日本とポーランドの文化交流に貢献を評価された
9月、ウィーン放送交響楽団日本公演のソリストとして全国各地で演奏
1994年
1~2月、アメリカン・シンフォニーオーケストラの日本公演のソリストとして全国各地でラフマニノフの《パガニーニの主題による狂詩曲》を演奏、好評を博する
著書第3作『アルゼンチンまでもぐりたい』(文藝春秋刊)を出版。ウィットに溢れたエッセイ集はベストセラーとなった
2月、イタリアの「マリア・カラスコンクール」審査員
6月、ロシアのチャイコフスキー協会の依頼により、「国際チャイコフスキー協会日本」を設立して会長に就任。7月にはモスクワで、ロシア、日本、アメリカ、ドイツそれぞれのチャイコフスキー協会よる国際チャイコフスキー協会の設立式に参加した
9月、中国初の国際コンクールとして誕生した第1回「北京国際ピアノコンクール」の審査員
11月、第2回「浜松国際ピアノコンクール」の審査員
10~12月、デビュー35周年記念リサイタルを浜離宮朝日ホールで開催。ショパンのノクターン全21曲を中心としたプログラムで好評を博する。翌年より全国各地で記念演奏会を行う
1995年
1月17日に起きた阪神・淡路大震災の被災者支援として、2月に大野和士指揮の東京フィルと、4月には神戸・ホテルオークラで『がんばってね神戸』と題するリサイタルを開催し、5月には東京・サントリーホールで大野和士指揮の東京交響楽団と再びサポートコンサートを行う
5~6月、ロシア国立交響楽団(スヴェトラーノフ指揮)の日本公演のソリストとして各地で共演
8月、仙台で行われた第2回「若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」の芸術監督および審査員団の副委員長を務める。同コンクールはロシア以外でのチャイコフスキーの名を冠した初めてのコンクールとなった
10月、ワルシャワ。「ショパン国際ピアノコンクール」審査員
11月、パリ。「ロン・ティボー国際コンクール」審査員を務める
 
清涼な感動にひたることができました。最初の鎮魂の曲として弾かれた「ショパン:ノクターン」がガレキの下で「パパ、パパ、パパ」と三度呼んで亡くなった近くの乳児への思いが重なって思わず涙が流れ、曲が終わりましても、よう拍手をしませんでした。それでもリサイタルの終わるときには、明日からその人たちの分もがんばって生きていこうとの思いを強く自分に言い聞かせていました。
…「がんばってね神戸」来場者(西宮市 Tさん)からの手紙より
1996年
3月、神戸復興支援のため、ザグレブでザグレブ・フィル(大野和士指揮)と共演
第1回「浜松国際ピアノアカデミー」を開催、その音楽監督を務める。アカデミーは1回目からそのレベルの高さが注目を集め、現在まで毎年3月に開催されており、多くの国際コンクール入賞者を輩出している
4月、グリーグの生まれ故郷ノルウェー・ベルゲンでベルゲン・フィルハーモニー定期演奏会に出演し(ドミトリー・キタエンコ指揮)、絶賛を博す。併せて、グリーグ、シューマンのピアノ協奏曲をレコーディング
7月、「シドニー国際ピアノコンクール」審査員
9月、英国の「リーズ国際コンクール」審査員
1997年
4~5月、ロシア国立交響楽団(スヴェトラーノフ指揮)の日本公演のソリストとして各地で公演。併せて、ラフマニノフのピアノ協奏曲第1番、ラフマニノフの《パガニーニの主題による狂詩曲》をレコーディング
5~6月、米国「ヴァン・クライヴァーン・コンクール」審査員
7月、12月、さらに翌年5月の3回にわたって、ベートーヴェン・ピアノ協奏曲全曲演奏会を開催(都響との共演)、意欲的な取り組みに、絶賛を博す
8月、東京都から提示された『東京都財政健全化計画』(いわゆる受益者負担・原価主義による公立施設の使用料倍増化)を受けて、芸術家を中心とした『東京都文化施設使用料大幅値上げを許さない芸術・文化団体の会』が発足、その実行委員長に請われて就任する。運動には在京98の芸術文化団体が参加、抗議のためのコンサートや署名活動が行われた。その活動は全国レベルにまで広がり、45万人を超える署名が寄せられた結果、大幅値上げは都議会により否決された。その後、この民間初の各芸術団体の集まりはその後、『芸術文化都市東京をつくろう!ネットワーク』(代表委員:中村紘子)としての活動に繋がった
11月、第3回「浜松国際ピアノコンクール」。第3回より、審査委員長を務め、現在に至る
1998年
2月、長野冬季オリンピックの組織委員を務める。前回の冬季オリンピック開催国のノルウェーより来日したベルゲン・フィルハーモニーと日本各地で共演。長野での記念演奏会では、対人地雷の全面禁止条約批准を推進した小渕外務大臣(当時)と地雷撤去で手足を失った聖火ランナーのクリス・ムーン氏参加のもと、「ピース・アピール」を行う
3月、テルアビブ。「ルービンシュタイン国際ピアノコンクール」審査員
6月、モスクワ。「チャイコフスキー国際コンクール」で4度目の審査員を務める
11月、ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団(小林研一郎指揮)の日本公演のソリストとして参加、全国で12公演
1999年
40周年
5月、恒例の米国ツアー(7シーズン連続)
5月、ワルシャワ。ショパン没後150周年を記念したショパン・フェスティバルのオープニング公演に出演する
続いて、「プラハの春」音楽祭でプラハ・フィル(イルジー・ビエロフラーヴェク指揮)と共演、ショパンのピアノ協奏曲第2番を演奏して絶賛を博す
6月、97年に続いて「対人地雷撤去のためのチャリティコンサート(主催:難民を助ける会)」に出演
7月、彩の国さいたま芸術劇場で、2年をかけ計4回にわたる「バッハ&ショパン」のリサイタル・シリーズをスタートさせる
10月、ショパン150回目の命日にあたる17日、東京・サントリーホールでリサイタル。このリサイタルを皮切りに、翌年6月まで「デビュー40周年記念演奏会」を全国各地で開催
10~11月には「ビロード革命10周年記念~チェコ共和国芸術祭1999」に参加したプラハ・フィル(イルジー・ビロフラーヴェク指揮)のソリストを務め、全国公演でショパンのピアノ協奏曲第2番を演奏
10月、著書第4作『どこか古典派(クラシック)』(中央公論新社刊)を出版
12月、第2回「北京国際ピアノコンクール」審査員
50周年記念ツアー
50周年記念アルバム
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